」の文字と松十旅館
― 一族史の編纂と『今昔文字鏡』 ―

松尾政重 (六代目十吉曾孫)
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私と松十旅館

 松十旅館は、元禄年間から昭和の後半までの約300年間、青森県三戸町(南部二十万石の城下町)にあった私の実家です。
三戸と書いて、「さんのへ」と読みます。
代々、十兵衛を襲名したので、松尾十兵衛を縮めて「松十」と呼ばれてきました。
元祖は私から数えて九代前の人で、南部藩譜代家臣相内氏に生まれましたが、士族の身分を捨てて名字を松尾と替え、酒造りを生業としました。
江戸時代には酒株がなければ酒造りができなかった時代ですから、藩命によるものと考えられます。
松尾は、おそらく酒神松尾大社に由来するものと考えられます。
代々、苗字帯刀を許されていましたから、士族身分の扱いをされていました。
その後、嘉永五年(黒船騒動の年)に旅籠を始め、明治、大正、昭和と時代の移り変わりとともに少しずつ家業の内容を変えながら、三戸町字八日町を一所懸命の地と定めてきたわけです。

一族史の執筆と文字鏡との出会い

 家という概念がなくなるとともに核家族化が進み、一族が各地(特に、首都圏)に拡散しているのが現状です。
のみならず、家伝の古文書類も拡散、紛失の恐れがあります。
すでに、金目のものは「松十」の清算時に散逸してしまっています。
 そこで、年寄りたちが元気なうちに、一族史をまとめようと決心したのが3年前です。
書類を調べていくうちに、見たこともないさまざまな文字に出くわしました。
異体字、略字、俗字などです。
ワープロで書くためには、どうしてもこれらの文字をデジタル保存する必要にせまられました。
それで、デジタル文字辞典が必要になってきたのですが、そこで巡り会ったのが「文字鏡」でした。
 ここに紹介させていただく文字は、そのほんの一部分で、「」という文字についての私の格闘体験談です。ご参考になれば幸いです。(本の完成は2001年5月ごろになるでしょう)

 「・松十旅館」

これで、「はたご・まつじゅうりょかん」と読みます。
」という文字は、あまり見慣れない文字ですが、松十旅館の年賀状やマッチにも印刷されていましたから、我が家の商標のように使われていたものと思われます。

* 年賀葉書に(文字鏡番号026414番、Unicode16進7BFC)の字が見える。
*
マッチ箱のは、右側が""ではなく""であるが、この字形は2001年3月現在、文字鏡にも未登録。
*
マッチ箱の銭模様は部分と上下左右を組み合わせる文字遊びで、「吾唯知足(われただたることをしる)」と読む。この図案は京都・竜安寺にある手水鉢にも書かれている。


参考写真:関戸勇氏撮影。月刊情報誌『PHOTO WAVE』ミノルタ株式会社様ホームページ内)に掲載。

国語辞典で「はたご」を引いても、この文字は直接でてきません。
漢和辞典では(もちろん、文字鏡でも)、総画数十七画で、「トウ」と表音する文字として載っています。
文字鏡では、竹と兜を文字部品とするとすぐ出てきます。
「兜」の意味は、馬に飼料を与える器、馬に水を飲ませる竹製の器(うまぶね)、竹の輿、かご、などです。
それではどうして、我が家でこの文字を「はたご」と読み、旅籠の意味に用いていたのでしょうか。
「兜」だけで、かぶりもの、かぶりつつむ、かこむ、という意味があり、物を入れる器を表わしています。
「兜」は、元来、兜をつけた人の形を象形した文字です。
「白」は顔の輪郭に目をあしらったもので、その左右に帽と呼ばれる垂れひさしがつき、「儿」は人を表わしているのです。
兜に竹冠を戴せた「」という文字は、馬の飼料を入れたかご、マカゴ(馬養籠)のことで、馬籠、旅籠と同義です。
馬の飼料だけでなく、旅行中の食べ物、手回り品などを入れて持ち運ぶ旅行用の籠、行李の意味もあります。
また、籠の中身、飼料や食料そのものを指すこともあるのです。
その旅籠(飼料や食料)は、旅籠屋と呼ばれる食事付きの旅館で扱われていたので、旅籠屋のことをも単に旅籠というようになったものです。
『日本国語大辞典』(小学館)第十六巻の「はたご(旅籠)」の項には、その語源説のひとつとして、『和名抄』の記述を挙げています。
 十巻本『和名抄』巻六に、「 唐韻云〈当候反 漢語抄云波太古 俗用旅籠二字〉飼馬籠也」とあります。すなわち、は波太古と発音し、旅籠と二字で書くのは俗語であると書かれているのです。
意味は飼馬籠とありますから、は旅籠の雅語といえるでしょう。
(雅語とは、例えば馬を駒というように、日常生活で普通に使われる話しことばではなく、洗練された正規のことばのことをいいます。)

「松十」の遺品を調べていると、「」という文字に先祖のこだわりを感じます。
江戸時代から明治時代にかけて、松十旅館は、平成の現代にイメージするような単なる旅館ではなく、当時の最速交通手段であった「馬」を扱う旅籠であったと考えられるのです。
 我が家に松十旅館の写真が残されています。

父竹四郎が、五、六歳のわんぱく顔で写っているところから推察して、大正初期のものと思われます。
一階正面の屋根上に、大きく左書きされた松十旅館の看板がのっていて、真ん中に「日の丸」が掲揚されています。
奉祝、萬歳の垂れも見えます。
何かの祝賀記念写真らしく、人力車二台と自転車二台をならべて、「松十」の家族や使用人が、車夫、大工とともに写っています。
一階正面が全面開いていて、下がっている木札が「十和田山講社…」と読めますから、おそらく、十和田山講社中定宿と書いてあるものと思われます。
二階には、「専賣局定宿」、「旅人宿□□松尾十吉」、「□□□□定宿」に混じって、「軍馬購買…」の看板が下がっています。
このことから、松十旅館は大正時代もなお、馬とのかかわりが依然としてあったことがうかがえるのです。
看板に十吉の名前がみえることから、このころの「松十」は六代目十吉の代であったことが分かります。

余談ですが、この写真には、二階に、六代目その人、「松伝」の愛、茂、「佐瀧」のてい子、一階に、捷三、八代目十衛、伯父広吉、父竹四郎、「松伝」の安郎、「佐瀧」の栄一、高橋幸作(八戸)らが写っています。賑やかだったころの「・松十旅館」です。

(文字鏡研究会ホームページのための書き下ろしを会報第四号に転載。 2001/03/13)

 付記:『松十の竹ちゃん』 まつお十平著(生涯学習研究社刊 2001/06)


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