加藤弘一(文藝批評家)
橋本進吉の「表音的假名遣は假名遣にあらず」は歴史的仮名遣を根拠づけた論考として名高い。橋本は発音と表記の乖離が意識されるようになった鎌倉期において、音を写すことではなく、伝統的な表記法の継承をえらんだことが仮名遣を誕生させたとし、いわゆる表音仮名遣は仮名遣とは別物とするが、これでは呼び方の問題になってしまう。「表音仮名遣」という呼称をやめ、「表音記号」とか「簡易仮名表記法」とでも言いかえればいいという話になりかねない。
だが、橋本論文の核心は以下の条にある。
單なる音は意味を持たず、語を構成してはじめて意味があるのであるから、假名遣は、單なる音を假名で書く場合のきまりでなく、語を假名で書く場合のきまりである。
文字とは音ではなく、「語を寫すもの」だという洞察である。
この洞察の重要性に気がついたのは、コンピュータの多言語処理の研究者から、アラビア文字が「表語文字」と呼ばれていることを教えられた時だった。アラビア文字は母音を表記しないので、字面だけでは発音がわからない。アラビア文字の読める人は、ひとかたまりの字形を見て、ちょうど漢字を判別するように、単語を認識するのだという。
ひるがえって考えるなら、西欧語を記述するアルファベットだって、音を写しているかどうかはすこぶる怪しい。フランス語の動詞は一〜三人称の単数・複数、計六通りの変化をすることになっているが、実際の発音は三〜四通りしか変化しない。読まない活用語尾をわざわざ変化させるのは、ラテン語とのつながりを明示し、表記体系としての一貫性を保つためだというが、それでは音ではなく、語を写していることにならないか。英語やドイツ語の正書法にも、一貫性を保つために生じた音との乖離がある。
近代言語学は音声言語こそ真の言語とし、文字言語を二次的な写しと貶め、表音文字は表意文字よりも一等すぐれているとしてきた。だが、表語文字という視点から見れば、表音文字も表意文字もなく、表記体系としての一貫性と、実際の発音との折りあいをどうつけるかという程度の問題があるにすぎない(漢字も音符で表音しており、反切や「華夷訳語」のような例もある)。
表意文字・表音文字という見せかけの対立に惑わされ、漢字の表記体系をずたずたに破壊したいわゆる「国語改革」の犯罪性は、今後、いよいよ指弾されるだろう。