始皇帝の文字統一

(東京大学教授<大学院情報学環・東洋文化研究所>)


 一般に理解されているところでは、始皇帝の文字統一はこうなっているだろう。
 「秦の始皇帝が天下を統一するや、度量衡と文字を統一し、各国のものは否定された。否定された国の度量衡や文字はばらばらだったから、統一する必要があったのである。」

 ところが、そうではなかったことがわかってきている。以下には、始皇帝の文字統一の実際を述べ、その背景を説明しておくことにしよう。

 始皇帝は確かに文字を統一した。その結果残されたのが篆書と隷書である。篆書は現在でも判子に用いられる文字であり、隷書はいま見ていただいている文字、楷書の先駆に当たる。篆書は祭祀用の文字であり、隷書は文書行政に用いられた。

 否定されたのは、戦国時代の各国が用いていた文字である。やはり祭祀用と文書用があったが、秦の場合と異なるのは、祭祀用・文書用いずれも篆書の系統に属したということである。祭祀用の篆書は、秦とあまり相違がなく、文書用の篆書は、略字化が進んでいた。だから、始皇帝の文字統一の結果、大きな影響を受けたのは、各国で用いられていた文書用の篆書(これを滅ぼされた六つの王国にちなんで「六国(りっこく)古文」と称する)であった。

 一般的な見方では、この六国古文は国ごとの相違が著しかったから、そのばらばらな状況を秦の統一が解消した、となっているはずである。ところが実際は、戦国時代の各国の文書による交流はかなり活発で、略字化は相互影響の中で進んでいた。だから、国ごとの相違は実はほとんどなかったのである。

 では、どうして事実に相違してばらばらのイメージが作り上げられたのだろうか。

 それはまず、統一という言葉を無意識に反芻しながら、戦国各国の文字をながめていき、字体の相違する事例を、国ごとの相違を示すものだと勝手に判断して拾い上げたからである。よく目にする文字統一図は、こうして作られた。

 ところが、よくよく調べてみれば、ある場合には青銅器、またある場合には竹簡、といった具合に、文字が表現される場がばらばらだった。そうした場の相違によってできあがった違いを、国ごとの相違と見誤ったのである。同じ国の中であっても、場の相違は字体の違いをもたらしていた(時代は春秋に遡るが、有名な鳥篆も越や楚の国内・域内でこれだけが用いられていたのではなく、多の国同様の字体と併用されていた)ということに気づかなかった。また、同じ場であっても、時期が相違すると字体が違っていた(部首構成による字形と書体とを総称して字体というが、書風まで問題にすると、工人の違いに基づく相違をさまざまな場で論じることができる)ということにも考えが及ばなかった。すでに述べたように、六国古文は略字化が進んだ。その進み方は急激だった。だから、時期が異なると略字化の段階が異なり、字体は相違することになる。

 さらには、すでに述べた儀式用の漢字と戦国時代にできあがった文書用の漢字という仕分けが、きちんとできていなかった。例えば、石鼓文などで知られていた秦国の儀式用文字と、竹簡などで知られる楚の文書用文字を比較し、国ごとの相違があると誤って判断してしまった。そもそも、同じ儀式用文字で比較すれば、国ごとの相違は(特に部首構成に関しては)さして認められなくなるのであり、同じ国であっても儀式用文字と文書用文字には、相違が目につくのである。この点に思いいたらなかった。

 その上で言っておけば、少し前までは、秦で隷書が使われていたという事実も知られていなかった。
隷書は漢代から、と皆が考えていた。いまの常識では文字の統一には儀式用の篆書と文書用の隷書が関わることになるが、ちょっと前までは、秦は篆書で文字を統一したと見なされていたのである。

 さて、その隷書であるが、文書用の文字としては、この秦の文字だけが特異である。この隷書で文書用文字を統一したため、戦国時代の文書用文字の多くは読めなくった。だから、統一の衝撃は相当なものだった。これも事実である。

 では、なぜこの秦国の文書用文字だけが特異だったのだろうか。

 答えは、こうなる。

 戦国時代中期の前四世紀半ばから、新しい議論が始まり、正統とは何かが活発に論じられた。

この議論を基礎にして各国が相次いで王となった。彼ら王はいずれも唯一の正統を自任した。唯一の正統を証明する制度は、実際はほとんど同じであったが、論理の上では国ごとに独自性が強調された。その独自性が秦においては文書用文字に求められた、ということである。

 では、どうして儀式用文字と文書用文字があるのだろうか。

 この問題は新石器時代に淵源がある。前三〇〇〇年をすぎたあたりから、中国の農耕社会に大きな変化が現れてくる。大きな都市が城壁に囲まれ、その周りに中小の城壁都市や農村が従うような構造が見えてくる。この大都市がいわゆる国のはしりであり、その基本構造は春秋時代まで継承された。大都市では共同祭祀がいとまれ、そこでは君主の血統を支える祖先祭祀と土地土地の神の祭祀が執り行われていた。

 殷や周のような王朝は、この各国の共同祭祀には直接手をふれなかったが、各国代表をみずからの都城の周囲に集めて頻繁に威圧儀礼を行い、間接的に各国の共同祭祀に影響力を及ぼした。この方法によって、秩序の維持がはかられたわけである。

 威圧儀礼の場で用いられていたのが漢字であった。その場を通して漢字は各地に伝播し得たが、出土遺物の出方から見ると、その伝播は限られたようである。

 周王朝は、さらに青銅器を各国に分与してその青銅器を共同祭祀の場で使わせた。各国の共同祭祀に直接は介入しないものの、祭祀の場で使われる銘文には周を上位とする文言が記されている、というしかけである。しかも、その青銅器に銘文を鋳込む技術は周が独占していた。そのため、各国の祭祀の場では、自由に銘文を青銅器に鋳込むことができなかった。

 この状況が劇的に変化したのは、周の東遷のときである。周を支える諸侯が二手に分かれ、西安の地と洛陽の地にそれぞれ王を立てて争った。東の周が西の周を滅ぼしたが、混乱は収拾されなかった。この混乱の中で、青銅器に銘文を鋳込む技術が各地に伝播し、各国の共同祭祀の場で独自の漢字使用が始まる。

 春秋中期以後、鉄器の普及が大きな社会変動をもたらし、国が相次いで滅ぼされ、県として支配されるようになると、各国の祖先祭祀は否定され、それぞれの土地神は中央から派遣された官僚の支配下におかれた。官僚は中央と文書によるやりとりをするようになり、祖先祭祀は中央にいる王のものだけがいとなまれることになった。この祖先祭祀の場では、ひきつづき殷周以来の篆書が用いられ、中央と地方を結ぶ文書行政の場では、しだいに略字化が進行した。

 以上の経緯によって、祭祀用文字と文書用文字ができあがったということである。始皇帝の統一は、秦の正統を天下にあまねく知らしめることに他ならなかったから、祭祀用文字は当然秦のものになる。

これに加え、秦の文書文字であった隷書も秦の正統を証明するものであった。正統でないものは弾圧される。それが焚書という形で具体化した。秦の正統を誹謗する学者も穴埋めされた。

 さて、この秦の文字統一の後についても、一般に誤解があるようである。後世始皇帝が批判された際、誇張されて「書物は灰燼に帰した」と言われ、六国文字の伝統は絶たれたかのようなイメージが植え付けられてしまった。ところが、実際は、六国文字の知識は着実に継承されていたのである。

 後漢時代の『説文』(『説文解字』)には、「古文」として紹介される異体字がある。また、三国時代の魏では、三字石経というものが作られている。これには六国古文が使われている。『説文』に紹介された古文は少数であり、三字石経はわずかしか現存しない。しかし、その知識がさらに後代に継承されていたことは意外な書物から明らかにされた。

 宋代に作られたとされる『汗簡』や『古文四声韻』という書物があり、ながらく無用の書として見捨てられていたが、中国の古文字学界でその価値が認められ、盛んに活用されるようになった。これらの書物を利用すると戦国時代の竹簡が読めることがわかってきたのである。

 そういう目でみれば、紀元後三世紀の半ばに、戦国時代魏国の竹簡が大量に出土した際、学者たちはそれを解読したことが知られている。少なくとも解読ができる程度の知識があったということである。

 始皇帝の焚書はあったに違いないが、国都に文書を集めた後に市中の書物を焼いたのであり、また学者が書物を持つことは許されていた。項羽の焼き討ちがあって相当量の書物が焼けたようだが、それでも漢代に継承されたものがある。だから、文字知識の継承はとても難しい状況にあったことは一方の事実なのだが、他方なおその知識が継承される条件は残されていたわけである。

 始皇帝の文字統一については、その時代を遡るについても、また、時代を降るについても、大いなる誤解が根強く残っているようだ。こうした誤解は、より正しい歴史認識を得ようとする際に大きな障害となる。そこで、関連する内容を簡単にまとめ、注意を喚起することにした次第である。

 なお、以上の文章を作るに当たっては、中国の裘錫圭氏ならびに恩師松丸道雄の見解を参照し、筆者の私的見解によりまとめなおして骨子としたことを、最後にお断りしておく。

参考文献
1. 拙著『『史記』二二〇〇年の虚実』講談社、2000年1月
2. 拙著『中国古代の予言書』講談社、2000年6月
3. 拙稿「文字の発生と展開」『世界美術大全集・東洋編一・先史殷周』小学館、2000年8月


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