牛窪梧十(大東文化大学書道学科講師)
松丸道雄先生からの紹介とのことで文字鏡研究会の谷田貝常夫氏から電話を受けたのは、平成十年七月であった。
「今昔文字鏡」というコンピューターソフトに「説文解字」の篆書をフォントとして納めたいが、そのままで使える版本がない。
コンピューターもクネクネした文字は苦手なようで、やはり誰かが新たに書く必要があるとのことであった。
私は昭和六十二年に「標準篆刻篆書字典」という本を二玄社から出し、同じような仕事をしたことがある。
これは有難いことに現在も版を重ねているが、その経験があるだけに、今回の「説文」の篆書約一万字を書くという仕事の大変さはすぐに理解できた。
毎日百字ずつ仕上げても、四ヶ月は必要なのである。
篆書を書ける人を数え上げてはみたが、それだけの時間のゆとりのありそうな人は誰も思い浮かばなかったので、ここは、日本一閑な書家と称している自分がやるべきかと覚悟を決めて、この仕事の了承をした。
しかし当面は自分自身が書道界でのっぴきならない重要な局面にいるので、実際の仕事は平成十一年の春から始め、七月中には完成させるという事にしてもらった。
さて首尾よく当面の目標を達成して、三月から仕事を始めようとしたが、大きな問題点があった。
書くための原本として送られてきたのが、天理図書館蔵の元版の「説文解字篆韻譜」のコピーだったのである。
書家の立場では音韻に興味はないので、「一篆一行本」しか使ったことはないし、同じ部首の文字がまとまって出てこないので、全体を統一して書くという仕事にはどうにも具合が悪いのである。
しかも古い時代の木刻の版本なので、欠落や誤刻などあやしげな字が多々あり、今回は字書き職人に徹して頭を使う必要はなかろうという目算が、すっかり狂ってしまった。
疑問のある字は他本を参照せねばならず、これにかなりの時間を費した。
字形の細かい部分の書き方などは現在の知識で改めたところもあるが、書体としては新味や雅味は追わず、読みやすく見やすくを心がけ、篆書の活字のようなものをめざした。
実際の作業は、まず鉛筆で下書きをしてから、それを目安に筆と墨で書き、次にポスターカラーで部分的な修正をし、乾燥したら消しゴムで鉛筆の線を消すという手順で行った。
一枚の用紙に二十四字が書けるのだが、一枚を仕上げるのに一時間以上は必要であった。
この仕事では細かい線を均一に書くために、筆を持つ指先にかなりの力を集中することになり、筆の軸が当たる部分は血行が悪くなり固くなってしまう。
一枚が仕上がるたびに、手指を熱い湯で温めたり、親指の動きに関わるツボを指圧するなどしてしのぐしかなかった。
四月二十二日に第一回分として七九九字を発送し、七月二十日には最後の七回目を送ることができた。
四六七枚の用紙に総数一一、二〇〇字あまりを書いて、私の百日間の難行苦行は終了した。
使用した筆が六十本、消しゴムだけでも三個を消耗した。
しかし同時進行で始めたコンピューターへの取り込み作業は、実に九ケ月近くを要したらしい。
篆書を書くという仕事は、どんなに注意したつもりでも誤りは避けがたいものであるが、こんな有様なので書き終わってからは気力が失せてしまい、送られてきたコピーを見直すことができない。
校閲というのは別の人間がするべきであろうし、インターネットの時代では無数の校閲者を期待できようという理屈を述べて、とりあえず、この仕事の終了としたい。
パソコンはおろかワープロすら使ったことがない私がこの仕事をすることになったのは不思議な事態であるが、しかしこの事はまさに、このような時代であるからこそ手書きの文化の重要性も増しているのだという認識のもとに日本で初めて設けられた大東文化大学の「書道学科」の意義の、証明になったのではなかろうか。
ともあれ二十一世紀へつながる仕事をしたのだろうという自負を胸に、この道をめざす奇特な若者の育成に微力を尽くしている現在である。