Essay XI

文字の音と形と

谷田貝 常夫

形聲相表裏

 陰陽の二元論ではないが、精神世界まで含めて、事象を二つの側面から眺めると、すべてが理解しやすくなる。
萬物のはじめにあつたとされる光は、ニュートン・リングを説明するのに「波」としてとらへられ、アインシュタインは「點」として理論の筋を通した。
波であること、點であることの證明はできても、他方の否定はできないままに「光」は同一存在でありながら、波でもあり點でもあるといふ二面性をかかへて物理の世界では納得されてゐるようである。
有名なルビンの、同一畫面で壺と見れば壺、人間二人が向ひ合つてゐると見れば人の横顏となる、二義的な繪に光の實態は似てゐるといへるだらう。宗教では、佛教にあっても、宇宙の諷喩としての密教の曼陀羅は、一つの宇宙の持つ兩側面、「胎藏界」の慈悲と「金剛界」の智慧といふ二面性を擔つてゐる。
物理的な宇宙の表象でもあり、一方、C.G.ユングが見つけた心の世界の在り樣でもある。
言語の面でもF.ソシュールは、意味を二つに分け、「能記Signifian・意味するもの」と「所記Signifie・意味されるもの」が「紙の裏と表」のやうな關係にあるといつた比喩を用ゐてそれを記號論ないし意味論の基礎に据ゑた。

文字の世界を考へてみても、何組かの相對立する二面性がある。その最たるものは、文字が個人の使ふものであると共に、他人にも理解されなくてはならないといふ宿命を負つてゐる點である。
個人的なパロールの世界と、總體的なラングの世界に分けて考察されることと似てゐる。
例へば漢字がその好例だが、書き手の恣意によつて形が樣々に變はる。
「酉」の下に「水」を加へた字は「酒」と同じであり、「衣」を上下に分けて間に「里」を入れた「裏」は、「裡」と同じなのである。
ところが文字は、人に讀んでもらふために書く、つまり傳達を主たる目的とするから、あまり懸け離れた變形はできない。圀といつた則天武后文字のやうに、人に讀みとらせるためには天后の權限をもって、意味の傳達を強制する以外にはない。
漢字の六書の冒頭に「象形」とあるが、これとても、人それぞれが勝手な繪文字を描いたのでは他人の理解がえられない。
たとへば「龍」は、想像上の動物であるだけに、甲骨文では實に多樣に描かれてゐる。
素人にはとても龍とは見えない字も多い。
松丸道雄氏が「文字域」といふ用語を編み出された理由がよくわかる。
それが追々にあるパターンにおさまってきたので、われわれにも特定の文字として認識でき、通用するやうになったのであらう。
字形の定着には、何千年もの歴史が要るのである。

現在知られてゐる世界のあらゆる文字体系は、形態素と音(節)素のいづれかに屬するとされてゐるようだ。
つづめて言ふと、「形」と「音」、視覺と聽覺に対応する。
歐米語の音素文字に對し、エジプトの象形文字や中国、日本の漢字は、形態素に對應するものとされてゐるようだ。
この形と音も本來的に二義性を背負つてをり、既に二千年も前の説文解字で許愼は「形聲相表裏」(段注本による)とソシュールを先取りしたやうな″表現″を使つてゐる。

異體字について

 形態素に對應するとされる漢字について、現今の最大の問題點は、字數が莫大なことであり、その原因ともなつてゐる「異體字」の多いことである。
漢字が人により敵視される理由の一つはここにある。
先の酒や裡もさうだが、「嶋」といふ字にしても、「山」が「鳥」の上にも下にもついた字があり、「鵞鳥」の「鵞」に至つては「我」をめぐって「鳥」が上下左右に翔び囘り、どれが元字かは決めがたい、音の同じ四つの異體字を作り上げてゐる。
JIS漢字にさへ「鵞」と「鵝」の二つがあるほどである。松丸氏の提唱する「文字域」は、異體字の集合と考へてよいのであらう。
字數が限りなくふえるわけである。

 しかし、少し仔細に調べてみると、異體字と括られてはゐるがその發生には樣々な要因がある。
省略したもの、付け足しをして飾つたもの、誤字がそのまま通用してゐるもの等々だが、そのやうな異體字と稱される同義の字形を眺めてゐると、基本的には「形」からくるものと「音」からくる異體字とに分けられることがわかる。
形の方は今擧げたやうに例が多いが、音による異體字もかなりあることが知られる。
われわれも通常、手紙の末尾に「早々」とも書き、「草々」とも「匆々」「怱々」とも記すことがある。
ほとんど同じ意味で、あるいは無意味に使つてゐるのだ。
ほかにも、「添」と「沾」、「煙」と「烟」、「琉」と「瑠」といつた組も、同音で同じ意味を擔つてゐるので、字形を音素として使つてゐることがわかる。

 今昔文字鏡には「關聯字」なる項目があつて、「基本字」を中心に古字や異體字が竝べられ、檢索に大いに役立つ。嚴密を期すまでには至つてゐないが、字を檢索する便だけではなく、樣々な漢字が複雜な網目となって、相互にからみあってゐる樣子をうががひ知るのに好個の道具ともなつてゐる。
そのあたりの異體字の分析は後日のことになるが、こと「音」にかかはる異體字、音借字の數は、文字鏡中の對象漢字數約七萬字中、四千四百ほどであつた。
現在常用漢字とされてゐる漢字の倍以上もある。
もつと委しく調べれば數は増すと考へられるが、比率としては六.三パーセントからはさう遠くないであらう。
文字鏡の關聯字には「國字」とか、「古字」「字喃」「則天文字」といつた幾つもの分類がしてあるので、この割合を多いとみるか少ないと見るかは判斷のわかれるところである。
しかし、漢字にも音素的要素がかなりあって、それが異體字を作ることもかなりあると、讀み取ることはできる。形と音の微妙な交錯である。

文字は音の手がかりにすぎないのか

認知心理學者ピンカーの著書『言語を生みだす本能』は、該博な用例をあげて言語の普遍性を主張してゐるが、言語を考へる上で中々に示唆的だ。
ピンカーは、言語は文化的人工物ではなく、自然発生的、生得的なもので、思考と言語は別のものだと主張し、アインシュタインなどの例をあげて、創造のひらめきは言葉でなくイメージで考へた結果であり、人間はことばを覚える以前に「ものの概念」をもつてゐる、その心的辭書ともいへる概念が一貫したシンボル・記號を使つて表示されたもの、それが言語であると主張する。
その言語と「ことば」、諸民族が現實に使ふ言葉の體系とのあいだの溝は埋めてはゐないにしても、言語を人類總體のものとしてとらへた主張は中々に説得力がある。

 この論書からわたしがここにとりあげたいのは、「表音」の問題だ。ピンカーは、人間の言語知覺はかなりの程度音に頼るとして、著書のほとんどを音聲言語の問題にあててゐる。
ところが、現實の音聲は文脈が變れば音色をかへることを實證し、言語音聲はそもそもが″幻覺″であり、アルファベットは音聲に對應していないし、對應すべきでもない、現實の音聲に對應する記號をもつやうな文字體系は世界のどこにもない、英語の綴り”TOUGH”は見かけよりは論理的なのだと主張する。
幻覺にはちがひないが、福田恆存氏がいふやうに、「一つの言語共同體に屬する人達が″そのつもりでゐる″同じ言語音」が音韻だとする方が、當を得てゐよう。
音韻の表記について話の筋は少しずれるが、日本語で「チャイコフスキー」と表示されるものが、英語ではChaikovskii、Chaikovsky、Tchaikovsky, Tschaikovskyと定つてゐない(tschは、ロシア語のYに似た一字をドイツ語におきかへたものらしい)。日本でゲーテに定着するまでの、表音文字による表示の苦勞が察せられる。
他方、表語文字である漢字も、音は必ずしも定つてゐない。
たとへば「樞」の音は、大漢和によると、シユ・チヨ・オウ・オ・スウとあり、讀みに迷はされる。
外國の固有名詞を漢字に宛てるのもたいへんな作業と推測されるし、讀取りにも苦勞する。さうなると、漢字の字源解明で藤堂明保氏が、漢字は音が字義を決めるのであり、「字形はてがかりにすぎない」とした音至上主義の立場には疑義があり、必ずしも納得されるものではない。

「かな」の功罪

 漢字を起原とし、表意から離れた「假名」は、表音文字だと斷定されることが多いが、正確を期せば、子音と母音が組となつた「音節文字」であり、子音と母音のそれぞれの音素に字を割當てた表音文字とは異る。
その表音的である假名と表意的である(正確には表語文字といつた方が妥當だらう)漢字を共に使ふ日本の「漢字假名交り文」は、情報傳達の點でまことに能率がよい。

 漢字のパターン認識の問題ではかつて渡邊茂氏が實驗をし、漢字の讀解がアルファベットの場合より五割は早いといふ結果を得てゐる。
(『漢字と圖形』――實驗的には、殘像の助けもあつて、三萬分の一秒で漢字は讀めるといふ。)
時間的な繼起に頼る音のイメージより、無時間的な視覚イメージの方が情報傳達速度はよほど早いのである。
その點、概念語=詞を主に漢字で表示し、主情を表す辭は表音文字といふ日本文は、情報傳達力が抜群といつてよい。
戰後の日本が全國焦土の中から有數の國家へと成長できたことの理由のひとつに、この情報を素早く讀み取れる、漢字假名混りの日本文の力もあげられよう。
假名の效用が活きてゐるのだ。濁點の發明も假名の效用であらう。無聲音に「〃」をつけることで有聲音としたことが、字數の節約になつてゐる。

 しかし、音節文字である假名に頼るためか、日本人は音韻に無頓着なところがある。英語に弱いといはれるのも、そこに大きな原因があるやうに思はれてならない。
「す」が無聲化して/s/に發音される場合のあることは昔からのことであるが、最近は英語の影響からか「フ」を/f/に發音してゐる現象もあることが指摘されてゐる。「ファン」を〔hu・a・n〕と聲に出す人は今は少ない。
さう注意して聞くと、「言わない」は果して〔i・wa・na・i〕なのかどうか。
かすかにしても/f/に近い發聲の感じられることが多い。
「言はない」のはうが現實の發音に則してゐるといへるだらうし、今後の日本人がどう發聲をかへてゆくか、誰にも豫測できないことからも、が歴史的假名遣ひに立ち戻る必要のあるゆゑんである。
ピンカーが、rightは論理的なのだとする主張とも軌を一にする。
この間の詳細は、すでに福田恆存氏が演出家の立場から再三再四發言してゐるので繰り返さないが、氏は『日本語はなぜ聽き取りにくいか』といふ文章の中でその原因を、日本語の音韻が單純である特質を楯に、日本人が發音に怠惰であることを、ひいてはそれが精神の怠惰によるものであることを指摘してゐることは看過できない。

 本居宣長の著作をそれほど讀んでゐるわけではないが、文字の、漢字のなかつた神代の言傳への代の心に立ちかへれと主張したことは傳はつてくる。
つまり、音だけの言語による世界を思ひ出せと言ふのである。
音聲言語のみの世界であつて、そこには表意だ表音だといふ文字はない。
その主張を文字を書き綴ることでおこなつた宣長は、文字の徳をよく心得た上で、「文字といふ物のさかしら」に警告を發したのである。

文字といふ物を手にしてしまつた、文字の世界に浸りきつてゐるわれわれとしては、その忠告に思ひをいたしながら、特に漢字のもつ二面性につき、さらなる檢討を加へる必要があらう。

(因に、本稿では、「歴史的假名遣ひ」のためのワープロ・ソフト用IME「契冲」<申申閣>を使用した。)

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