Essay I
漢字の規範化の歴史について
松丸 道雄
漢字は、形成期以来すでに三千五百年の歴史をもっているが、その形・音・義の全てに亘って繰り返し多様な変化を遂げて、今日に及んでいる。
一般に文字は、そのまま放置しておくならば、常に変化していくという通性を持っている。
しかし一面では文字は、また統一性を持たなくては様々に不都合を生ずるところから、これを規範化しようとする動きを喚びおこすという性格をも持つ。
この二面性の中で、変化を続けてきたのが漢字の歴史である、と言えよう。
歴史的にいって、ある時期に用いられている漢字に統一性を与えようという試みは、屡々為政者の立場からなされた。
中国の歴史上、かかる試みの最初のものは、秦の始皇帝による文字統一の試みであり、これは小篆という書体に対してなされた。
そして西暦紀元百年、後漢の許慎によってこの小篆体の文字九千三百五十三字を見出し字とする字典『説文解字』がつくられ、のち永く聖典視されるなかで小篆の規範体が確立され、今日に及んでいる。
その後、二世紀に熹平石経が作られて、隷書体の規範化がはかられた。
また三世紀には、古文体・篆書体・隷書体の三体を並記した正始石経が作られて、諸体の統一化が試みられた。
その後、更に楷書体へと変化する過程での多様な字形上の混乱の後に、この楷書体の規範化の試みがされた。
張参『五経文字』、唐支度『九経字様』等によって楷書の正字の策定が試みられた後、この両書が九世紀に作られた『開成石経』の内に吸収されたのは、楷書体の正字体を確立する上で、極めて画期的であったが、この場合も深く為政者がこれに関与していたことに注目すべきであろう。
これは、国の官吏登用試験制度であった科挙の実施に深く関わっていた。
さて、その後、それまでには無い全く新しい要素が、文字の歴史の上にひとつ加わることになった。
それは、文字を印刷する技術の確立とその普及である。それまで書物が筆写によってしか伝播しなかったのに代わり、大凡宋代に木版印刷技術が普及し、印刷に付されて広く普及するに至った。
その結果、誰にでも複製が容易な、没個性的書体が求められるに至り、印刷専用書体としての明朝体が考案されるに至った。
唐代までの篆書体・隷書体・楷書体についての文字統一が、その字形上の統一であったのに対し、印刷体としての明朝体の成立とは、楷書における書体上の統一がなされたという一面を持つ、というべきであろう。
即ち、明朝体とは漢字における、字形(construction)上と書体(style)上の二面における統一性を果たした文字として初めて成立した文字、という性格を持っていたと認識すべきなのである。
そして、この文字については、さらに清朝に至って『康煕字典』が作られ、約四万二千字の字形上の規範化が為されたが、この書物が明朝体をもって刊行されたということは決して見逃されるべきではない。
ここで強調しておきたいのは、この清朝の皇帝権力によって、字形上のみならず書体上も統一化が図られたという事実なのである。
その後、東アジア漢字文化圏においてはこの『康煕字典』が永らく字形・書体上の規範とされ続けた。
第二次大戦以降、中国大陸における簡化文字、日本における当用漢字等々により、様々な新しい字形が創案され、新しい事態が生ずるに至ったのは衆知の通りであるが、今はこのことには触れない。
以上述べたことをとりまとめるならば、三千五百年来の漢字の歴史において、極めて多様な書体が現出したにも拘わらず、そのうち、為政者によって規範化が試みられたのは、篆書と隷書における字形と、楷書における字形・書体のみであったということなのである。
それ以外の文字について、そのような試みはなされなかったということの意味を、文字を取り扱う人々は充分認識してかかる必要がある。
例えば、漢字の最も古い文字として甲骨文字と一般に呼ばれる亀甲や獣骨上に刻された文字群がある。
大凡、前十四世紀から十一世紀の間に用いられ、今日、十数万片発見されている。そして文字数として整理すると、大凡四千七〜八百字ある、とされている。
しかしこれは、その三百年間にわたって用いられた中から抽出して、ほぼ同一字であろうという枠組みを想定しつつ、おそらく一字と見なしてよいであろうと考えた一群の諸文字を、「一字」と見なすという前提に立つたものでしかない。
その一字と見なす枠そのものが正しいか否かは、今後一字ずつの検証を続けていく以外になく、またそれがいつかはできるという保証もどこにもない。
かつ、この二百年程の間にも、字形・書体の上で確実に変化し続けている。
そこには、その枠のなかでの標準的な字形・書体というものを指摘できない。
著しく、ヴァラエティに富んでいる。当時の人にはそれで充分機能していたと考えざるをえない。
従って、私は、これらを一つの文字と見るというよりは、むしろ、領域という概念で捉えておくべきではないかと考えて、近年、これを「文字域」という新しい概念用語を用いて説明を試みた(松丸他『甲骨文字字釋綜覧』凡例、東京大学東洋文化研究所・東京大学出版会、一九九五年。松丸「漢字形成期の字形―甲骨文字、"文字域"についての試論―」『しにか』一九九五年五月号を参照)。
このことを先に述べた漢字の規範化という問題を念頭において言うならば、甲骨文字においては、その字形・書体上の規範化が行われなかったし、また、行われなくても当時としてはその使用にさして困難はなかっただろう、と考え得るということなのである。
三百年間に及んで用いられ、今日、十数万片の甲骨片が発見され、従っておそらく百万字を超える文字資料が現存しているわけであるが、それらを四千数百の「文字域」に分類してみることは可能ではあっても、各「文字域」を代表する字形を指摘することは不可能であり、また、無意味である。
なぜならば、当時かれらが字形についての固定した概念を持っておらず、規範化された文字として扱ったわけではない、と考えられるからである。
もとよりこのことは、今日の研究者の立場からすれば、不便な場合もある。
従って、その研究者の便宜の為に或る一形をもって代表させるということも試みられてこなかったわけではない。
しかし、そのことは、かつて篆書体、隷書体、楷書体に見られたような、為政者による規範化がなされた上で、それが当時の人々・社会の中に受け入れられ、用いられてきたという歴史を持つ文字と同列に取り扱うべきものでは、全くない。
甲骨文以降も、多くの文字が現れた。青銅器に見られる、一般に金文と呼ばれている文字がある。
これは時代的にも、地域的にも、甲骨文字よりはるかに広範に用いられ、従って甲骨文字よりはるかに字形・書体上、ヴァラエテイに富んでいる。
また、戦国時代になると、文字が急速に一般庶民にも用いられるようになった結果、貨幣の上に見られるいわゆる泉幣文、印章に見られる璽印文、陶器(日本でいう土器)の上に見られる陶文等にも、それぞれ独特の文字が見られるようになる。
当然のことであるが、それらには全て規範文字は存在していない。当時の文字は、当然それなりの不便はあったであろうが、しかしそれでも文字として充分通用していたに相違ないのである。古代の文字とはそれが実態であった。
中国史上初の文字統一が、初の中国全土統一者であった秦の始皇帝によって行われたということの歴史的意義は、そのような文字の歴史を背景としたものであった。
中国で漢字よりもさらに古い文字であったかもしれない、と今日考えられるようになったものに、彝(夷)族の用いた彝族文字(彝文)と呼ばれるものがある。
これは、新石器時代後期に山東半島から准河下流域に住んだ夷族が用いたのではないか、それが今日では四川省、雲南省、貴州省、広西自治区等の西南中国に広く居住する彝族によって用いられている文字の源流ではないか、と考えられている。
しかし、その西南中国の各地に分拠して居住する彝族が、長期間に及んで様々にその文字を変化させて今日に及んだ結果、極めて多様な文字に変化し、その間に脈絡のつかぬものにまでなった。
そこで解放後、中国政府が少数民族政策の一環として、その文化振興を目的として彝文の規範化を試みた。
長期間の研究ののち、一九八○年に至ってようやく「彝文規範方案」が成立し、ここに初めて全彝族が使用可能の「規範彝文」ができ、彝文の活字もできた。
これによって彝文の印刷が可能となり、新聞も発行されるまでになった。
新石器時代からの彝文の連続性という点には未解決の問題が山積しているが、もしそのような理解に誤りないとすれば、四千年後にして初めて使用文字が規範化され、それによる共通文字が成立した、ということになろう。
漢字の歴史と対比して、改めて文字の歴史の一例として、参考に資すべき事柄であろう。
(一九九八・七・二九稿)